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卒業式の日に語る「向学館はいろんなチャレンジをサポートしてくれる場所 」

2017.3.09

3月1日、高校の卒業式を終えた1人の男の子が向学館に挨拶に来てくれた。
「節目の日にこそ向学館に行こうと思っていた」と語る彼。
2011年3月11日小学校6年生だった彼は、この春高校を卒業し、第一志望の大学へ進学するために女川を離れる。

向学館はいろんなチャレンジをサポートしてくれる場所だったと
そう語る彼が伝える6年間の想いと、これからの向学館への願い。

中学時代、バレー部の顧問として彼を見守り続けてきた佐藤敏郎先生による文章です。
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昨年、震災5年という節目ですが、どうですか?とよく聞かれたが、正直、ピンとこなかった。でも「6年」は節目という感じがする。教育現場に長いこと関わっていると3年とか6年は特別な区切りなのだ。

体育館は使えず、制服もない、図書室で中学校の入学式をした生徒たちが高校を卒業。彼らがいよいよ女川を離れるこの3月は、大きな節目だ。
2月末、1人の男の子が第一志望の大学に合格しましたとメールをくれた。
彼とは女川中学校のバレーボール部で3年間付き合った。部員も転校して、設備も整わず、存続が危ぶまれたバレー部に入部し(その後、避難先から戻ってきた生徒も誘い、何とかぎりぎりの人数を集めたのだった)、後にキャプテンになった。
持ち前の統率力を発揮し、生徒会長も務めていた。

高校の卒業式の日の夜、向学館を訪ねてくれた彼と6年間の話をした。
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■震災はもうすぐ小学校卒業という時だった。
はい、家は流され、祖母が亡くなりました。
あのときは「子どもの自分も何かできたのではないか」という思いが強くあって、春休み中も、避難所で何もできない無力感というか、もどかしさでいっぱいでした。

■そんな中、中学校に入学した。中学時代は生徒会長。学校をグイグイ引っ張っていた印象があるけど。
小学校時代は人前に立つタイプではありませんでした。ほとんど誰とも話をしないで、一人で本ばっかり読んでいる感じ。
震災のとき、何もできなかったという思いもあって、中学では意見を言うことが多くなり、人前で発表する機会も増えました。誰もやらないなら俺がやってやるみたいな。思いが空回りして失敗したり、迷惑かけたりしたこともありますが、やらずに後悔したくないと考えるようになりました。

(中学時代の彼)

■高校では?
高校でもバレー部に入って、文武両道というか、いろんな役職も取材もみんな引き受けて、めいっぱい取り組みました。でも、高2の終わりごろから、ドーンと気持ちが落ちちゃって、何もかも嫌になった時期がありました。

■3.11からいっぱいいっぱいの日々が続いていたからなぁ。
そうかもしれません。たぶん「キャパオーバー」だったのだと思います。完璧を求めすぎて、思うようにいかないと自分を責め、知らず知らず自分にプレッシャーをかけて動けなくなってしまいました。
本格的に大学受験の勉強を始めたのは夏休みあたりからです。向学館の自習室も通いました。先生方がよく声をかけてくれて、あの時期の向学館は本当にありがたかったです。

■もしかしたら必要な時期だったのかもしれないね。
はい、今はそう思えます。正直、焦りもあったのですが、最後に頑張れたのはあの時期があったからだと思います。ただ、親にはほんとうに心配をかけました。

■向学館はどんな場所だった?これからどうあってほしい?
何といっても、高校受験でお世話になりました。向学館がなかったら高校は合格していないです。特に英語はホントに基礎的なことも分かっていなかった。Be動詞も危うかったくらいでしたから。

(中学3年生の頃)


(中学時代に彼の英語の担任だった先生と3月1日に撮影した1枚)

大学受験では向学館の先生が進めてくれた教材がすごく役に立ちました。自分の勉強のやり方にぴったり合致していたんだと思います。
弱点って人によって違う。これからも一人ひとりの違いを大事にした学び方を届けてほしいですね。
それから、女川町の中に高校生が気軽に立ち寄れる場所があるということが本当に貴重だと思っています。向学館は、勉強もですけど、進路やマイプロジェクトなど、いろんなチャレンジをサポートしてくれる場所でした。
大学受験を終えた今、10回失敗しても、1回成功を体験すれば続けることができるということを思うようになりました。
夢って、その繰り返しの中で叶えるものだと思います。

(高校1年生の頃 向学館にて)

■中学最後の大会は準々決勝で、優勝したチームに負けたのだよな。3年生は3人しかおらず、一番背の高い選手でも相手の一番背の低い選手より小さかった。けれど、そのチームからセットを奪ってフルセットになり、会場は大盛り上がりだった。
あの試合はよく覚えています。
練習試合も敏郎先生は強いチームとばかり組むので、勝った記憶はほとんどなかったけど、みんなで力を合わせて強豪に向かっていくのは面白かったなぁ。
強烈なサーブやスパイクを拾ってつないで、高いブロックをかいくぐって何とか点をとる。女川中はそんなバレーでした。
敏郎先生は試合中「何とかしろ」ってよく檄を飛ばしましたよね。

■そう言うしかなかった(笑)なんか今回の大学受験みたいだな~。
たしかに(笑)
敏郎先生の練習は厳しかったけれど、ギャグもあって面白かったです。

■ミスしたら「腕立て100回、あるいは物まね」とかね。物まねはどんどん上達した(笑)
さあ、いよいよ18歳にして女川を離れることになるね。

はい。女川は育ててくれた故郷であり、誇りです。思い入れは強いです。
女川駅は電車の終点。つまり端っこに位置します。でもそれは、先頭と言い換えることもできます。
女川駅の先には駅がないぞ!っていう変な自負があります。

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教え子との再会は懐かしく、なんだか眩しい。
「もう卒業か、早いなぁ」なんて言いながら、6年間を振り返ると、やっぱり様々なことがあった。その一つひとつが、彼を磨いて、今日の輝きがある。
ましてや6年前、町は見渡す限りガレキの山だった。
校庭に作ったコートでボールを追いかけて、給食はパンと牛乳だけで、夏には蠅が大発生して、何か月も避難所で生活した。それでも「津波に負けないぞ!」って言うしかなかった。

卒業おめでとう。合格おめでとう。
長い道のりの中では坂道もあるし、でこぼこもある。同じスピードで進まなくていい。
止まったら置いていかれる気がして、自分のペースを見失いそうになるかもしれないが、向学館は伴走者みたいなものだ。子どもたちが立ち止まったときも迷ったときも、そばにいる存在でありたい。

(昨日3月8日の女川町の様子)今年ももうすぐ3月11日がやってきます。