一人前の漁師になって必ず女川に帰って来る
カタリバが宮城県女川町で運営する、被災地の放課後学校コラボ・スクール「女川向学館」。そこで私たちが出会った子どもたちは、この7年で大きく成長し、それぞれの道を歩み始めています。
2011年3月11日。あの日、小学5年生だった男の子は、7年たった今、高校3年生になりました。そして彼はこの春、大好きな女川を飛び立ちます。
「震災で家も流されて、失ったものは多いです。でも、その分新しく得たものもすごくあると思っています」
「一人前の漁師になって必ず女川に帰ってくる」そう答える眼差しは未来を見据えていました。
今回は彼にインタビューした様子をお伝えします。
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■「将来は漁師になる」という夢はいつから?
小学生の頃からです。父が兼業の漁師で、ホヤ養殖をしていました。東日本大震災があってからは漁師一本でやっている父をいつもそばで見ていました。
ホヤは東日本大震災の前までは生産量のうちの大部分を韓国へ輸出していたのですが、震災の影響で韓国への輸出が禁止になりました。その影響で父も苦しんでいました。そんな苦しい時でも毎日海へ出ていく父は本当にかっこよく、今でも私の憧れです。
■そんなお父さんを助けたいという想いを持って、自分のプロジェクトを始めたんだよね
はい、大好きなホヤをもっと日本で広めることが出来たらホヤ養殖もうまくいくし、お父さんのことも助けることができるのではないかと思い「ホヤの魅力を全国へ」というマイプロジェクトを高校1年生の夏から始めました。
■具体的にはどんなことをしたの?
ホヤって、海のパイナップルという異名を持っているのですが、5つの味がするんですよ。甘味・酸味・苦味・塩味・旨味の5つです。自分は、小さい頃からホヤを食べてきたので、その独特の味が大好きですし、誰でも好きになってくれると思っていました。
マイプロジェクトをはじめてから2年間で約500人にプレゼンをしました。最初はホヤの味を知ってもらうために、生のホヤを食べてもらっていたのですけど、あるときホヤを食べた山梨の女子高生が首をかしげたのです。正直驚きました。おいしくないと感じる人がいるのだと。かなりの衝撃でしたね。
それで、ホヤを使った料理を開発することに決めました。生のホヤの味は苦手でも、ホヤを使った料理なら苦手な人でも食べることが出来るのではないかと思って。
■そして開発したのが、「ホヤボール」だよね?
はい、そうです。女川向学館の先生たちとホヤ料理研究会を結成していろんなものを作りました。ホヤスパゲッティとか、ソースを変えてみるとか。町の人に食べてもらって意見もらったりしましたね。
ようやく完成した「ホヤボール」はご飯とチーズを混ぜたものをボール型にして、ホヤで包んであげるコロッケのようなものです。
(揚げる前のホヤボール)
(ホヤの味が苦手な人でも食べることが出来る「ホヤボール」)
■町のお祭りや女川のお店で販売させてもらったりもしたよね
はい、毎年3月に行われている女川町のお祭り「復幸祭」には2年連続で出店して、1年目は600個、2年目は900個売り上げました。
1年目はすべて手作業で作っていたんですが、2年目にはホヤボール製造機なるものを取り入れ効率化も図りました。他にも町のお店で販売させてもらったりして、たくさんの人にホヤボールを食べてもらうことができました。
正直、プロジェクトが大きくなりすぎて、辛いなと思った時もありましたが、向学館のスタッフの方に「自分のペースでやっていいんだよ」と言ってもらって、自分を見失わずに続けることが出来たと思います。
高校2年生の時にはマイプロジェクトアワードの全国大会に出場してベストオーナーシップ賞をいただきました。大変なこともありましたが、マイプロを続けてよかったなと今は思っています。
■女川向学館ってどんな場所?
向学館には中学生の頃から通っているのですが、どんな場所かと聞かれるとすごく難しいです。気軽に来て勉強もできるし、遊んで帰ってもいい。やりたいことがやれる、とにかく居て楽しい居心地のよい場所です。
向学館のスタッフの皆さんは、学校の先生と友達の間という感じ。話しやすいし、楽しい。向学館に来ると自然と笑顔になれる、自分にとって心安らぐ場所です。
(中学3年生の時の1枚)
(高校3年生、内定をもらった日に報告に来てくれた時の1枚)
■春からは女川を出て、小学生の頃からの夢だった漁師として働くのだよね
はい、春からは女川を出て遠洋漁業の会社に就職します。正直今は期待よりも不安の方が大きいです。ただ、自分には一人前の漁師になって女川に戻って来るという目標があるので、どんなに辛くてもがんばれます。どうせやるなら、一番を目指したいと今は思っています。
■女川、そして地元はどんな場所?
生まれ育った浜が大好きです。小さい頃から近所のおばあちゃんたちに育ててもらって、ずっとこの浜を駆け回って大きくなってきました。集落の中で知らない人はいないですし、みんな自分の親みたいな感じです。
一旦ここを離れたとしても、家のような場所であることに変わりはありません。人があったかいですね。震災の時もみんなで助け合って乗り越えてきました。
(生まれ育った浜)
■震災を振り返って今思うこと
家も流されて、失ったものは多いと思います。でも、その分新しく得たものもすごくあると思っています。
震災とか津波を恨む気持ちはないです。起きたことに対してそんなに深く執着しない性格もあるかもしれませんが、仕方がないと思っています。
地震が起きて津波が起きて家も流されて…津波で多くのものを失ったけれど、それによって地域の絆は一段と深まったと思っていますし、やっぱり前を向いて歩いていくしかないなって思います。
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憧れの父の背中を見て育った1人の少年は7年経った今、幼い頃から抱き続けていた漁師になるという夢を現実のものにしようとしています。
震災があったという事実は変えることができません。大切なのはその事実とどう向き合うか、自分自身でどう乗り越えようとするか、ということ。彼の姿からそのことを教えられた気がしました。
いつの日かこの女川の町で、一人前の漁師になった彼に再開できる日を信じてがんばっぺし!