【被災地・女川より】違和感のその後~震災8年目の風景の中で
宮城県女川町にてカタリバが運営する、被災地の放課後学校コラボ・スクール女川向学館。
今回は女川町で長く教員として活躍されてきた佐藤敏郎先生から見た女川の今をレポートします。
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2018年10月、向学館の前の仮設住宅の解体が始まった。
ここは旧女川第一小学校。
▲震災後、旧女川第一小学校の校庭に建った仮設住宅
震災後、校舎は避難所になり、長い春休みの後、一小の子供たちは他校の教室を間借りして学校生活を再開。やがて、校庭には町内最初の仮設団地ができた。7年以上前のことだ。
仮設住宅がどんどん撤去される様子を眺めていたら、ふいに震災前の女川一小の校庭が蘇ってきた。子どもたちが学び遊ぶ姿が見えてくるようだ。
旧女川一小のシンボル「ヒマラヤ杉」がそびえ立つ。
▲女川一小の校門脇にそびえ立つ「ヒマラヤ杉」(右上)
卒業生や保護者はどんな心境だろう。「懐かしい」という言葉だけでは表せない。
校庭や運動場に仮設住宅が立ち並ぶ光景には、当時かなりの違和感があった。高台にある野球場の仮設団地はスコアボードやベンチがそのまま。野球部の生徒が、国語の授業で「白球を 追ったあの場所 仮設建ち」という句を作った。
▲女川向学館の昇降口からは、校庭に建つ仮設住宅が見える
そんな風景も毎日目にしていると、かつて感じた違和感がいつの間にかなくなっている。「仮」というには7年はやはり長い。
もちろん、仮設住宅が全部解消したわけではない。町の至る所に「仮」があり「応急」があり、重機の音が聞こえる。日常になった違和感。
▲解体はあっという間にすすんだ
カタリバは震災後の風景の中の「違和感」の一つだ。
7年前、私は女川第一中学校の教務主任で、がれきに埋もれていた女川にカタリバがやってきた時、期待もあったが、違和感も確実にあった。
そして始めたのが、放課後の居場所コラボ・スクール向学館。
「コラボ・スクール」耳慣れない言葉…。
災害があってもなくても「開かれた学校づくり」は多くの学校のスローガンだ。学校の外部と連携・融合した方が、間違いなく学びは豊かになる。でも、スローガンになっているということは、まだまだ閉じているということでもある。開くのは簡単ではない。
緊急事態とはいえ、NPOと学校が急にコラボレーションなんてできるだろうか。かえって面倒なことになりはしないか。
とりあえず、NPOとのコラボは緊急時の応急処置みたいな感じでスタートした。「仮設」である。その後、7年後も向学館が続くなんて、少なくとも私は想像していなかった。それどころかこうしてブログまで書いている。
先日、女川小中学校合同の授業研究会に向学館のスタッフが参加していて、私もそこに行ったのだが、ぜんぜん「違和感」がない!
小中学校の先生と一緒に授業を参観し、研究討議も一緒にやっている。その他にも学校とタイアップした取組がだいぶ増えた。NPO団体と学校が、これほどコラボする事例はあまり見ない。
もはや、向学館は緊急時の居場所ではない。利用する小中学生の割合はむしろ増えている。高校生も来る。町のイベントの実行委員になったりして、地域にも溶け込んでいる。
女川では2020年の小中一貫校の開校に向けての様々な取組がすでに始まっており、向学館はその一員、女川の未来を拓く新しい教育の重要なピースだと私は思っている。
建物がそのままなだけで、中身はもう「仮設」ではないのだ。自他ともにそう認識できるよう、さらに試行錯誤を続けたい。
以前ブログに「向学館は瓦礫の中にカタリバが蒔いた種だ。」と書いたけど、芽が出て、根付いてきた。
あの日から蒔かれた種が、あちらこちらで花をつけ始めている。
被災地女川8年目の風景の中で。
(震災があった年の冬に向学館前で植えられていた花)
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向学館の目の前にある「ヒマラヤ杉」は、震災後の子どもたちの日々をずっと
見守っていてくれたのだと思います。
刻々と変わりゆく景色の中でも変わらないものがある。
そのことをしっかり受け止めながら、子どもたちとこの冬も向き合っていきたいと思います。