この校舎に通い続けて12年~僕の見つけた未来~
宮城県女川町にてカタリバが運営する、被災地の放課後学校コラボ・スクール女川向学館。
今回は女川町で長く教員として活躍されてきた佐藤敏郎先生と向学館に通う高校生の対談の様子をお伝えします。
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被災地の放課後学校 女川向学館は、旧女川第一小学校の校舎を使用している。震災で、女川一小は、他校の校舎を間借りすることになり、2013年4月からは町内の小学校が統合したため、閉校になった。女川一小出身の彼は、向学館ができる前からここに通っているということになる。
私が女川中学校に勤務していたのは、彼が中学1年生の年まで。学生服の袖丈を少し持て余したあどけない少年だった。早いもので高校三年生、この度就職が内定したということで、久しぶりに話を聞いてみることになった。
■まず、自分の性格を自己分析せよ
マイペースで、のほほんとしている。小さいときは泣き虫で、ちょっとしたことで涙ぐんでいました。
小学生の弟妹がいて、けっこう、こき使われています。
■(笑)それは、面倒見がいいっていうことじゃない?
そうとも言いますね(笑)
■震災の日のことは覚えている?
当時は、女川第一小学校の4年生で、この校舎に通っていました。
(▲旧女川第一小学校、現在は、女川向学館が1階を使用しています)
地震のときは、向学館の職員室の隣の教室にいました。すごい揺れが続き、停電になり、サイレンが鳴っていました。少し雪が降っていたので、先生方がテントを張ってくれました。
「これからどうなるんだろう?」って、すごく怯えていたのを覚えています。
泣き虫だったと言ったけど、あの時は泣きませんでした。そういう場合じゃなかった…。
家は高台だったので無事でしたが、数日後女川の町を見て「これが女川か?」と信じられませんでした。
よく遊びに行った親戚の家は流されました。そこの近所で、仲良くしていた子供が亡くなったのはショックでした。
あの経験は、絶対忘れてはいけないと思っています。
■女川一小は、2011年4月に女川第一中学校(現在の女川中学校)の校舎、7月に女川第二小学校(現在の女川小学校)の校舎を使うことになった。子供の立場としてはどうでしたか?
はい、引っ越しが大変でした。同じ校舎に別の学校があるのは、やっぱり違和感はありましたね。でも、合同でやった運動会とかは盛り上がって楽しかったです。
有名な人もたくさん来ました。中村雅俊さん(女川一小出身)が来て、励ましてくれたのをよく覚えています。
僕たちの学年は、女川一小最後の卒業生です。卒業のとき、みんなで「輝く未来へ」という歌を作ったんですが、「ずっと見守ってくれたヒマラヤ杉」というフレーズがあるんです。
この前、ここの仮設住宅が解体されて、元の校庭みたいにヒマラヤ杉が見えるようになりましたが、その歌を思い出しました。女川一小の子供にとって「ヒマラヤ杉」は特別な木です。
シンボルみたいな。
女川第一小学校最後の卒業式~輝く未来へ(映像公開者:鈴木(佑介さん)
■向学館は2011年7月のスタート時から通ったね。
向学館ができて、もう通えなくなった校舎を使ってくれてよかったと、まず思いました。
自分にとっては家とは違う「もう一つの居場所」でした。
みんなと会える場所でもあったし、何といっても個性あふれる先生が多い!勉強のこともですが、いろんな話をしました。
それから「チャレンジができる場所」です。
■どんなチャレンジをしたのかな?
高1の冬にカンボジアに行って、現地の子供たちとふれあうボランティアに行きました。向学館の先生が「行ってみないか」と声をかけてくれました。
自分にとってはかなりのチャレンジでした。初めての海外だったし、飛行機にも乗ったことがなかったんですよ。
(▲カンボジアでの様子)
■カンボジアかぁ。誰かが背中を押してくれないと、なかなかできないチャレンジだよね。で、行ってみてどうでしたか?
一番心配だったのはコミニュケーションです。現地の人はもちろん、一緒に行くメンバー も初めて会う人ばかりで不安でしたが、不思議と苦労しませんでした。自分からも話しかけられるようになり、楽しかったです。
アンコールワットや地雷博物館にも行きました。平和について、歴史について学ぶことができました。
自分にとってすごく大きな一歩になりました。行ってよかったです。
■知らない場所に行くと、自分の故郷を再発見するんだよね。県外の高校生とも何度か交流する機会があったね。
これも向学館の先生からの誘いです。東北を訪れた高校生に町を案内して、津波のことや、その後の復興した様子を話しました。
「女川いのちの石碑」も紹介しました。1000年後の命を守るため、東日本大震災を伝えていこうと二つ上の先輩方が中心となって募金を募り、建てた碑です。後輩としても伝えていきたいと思っています。
■私もその様子を見てたけど、同世代の言葉はより響いたみたいだよね。案内する側にとっても、改めて自分の町を見つめ直すきっかけになったと思います。自分にとって女川はどんな町ですか?
やっぱり、あの震災から立ち上がったことはすごいと思います。倒れても立ち上がり、力を合わせればなんだってできることを教えてくれる町です。
生まれ育った大好きな故郷です。将来もこの町に住みたいと思っています。
■高校は調理コース(類型)のある学校だったけど、卒業後の進路は?
高校受験のときには、向学館の先生も相談に乗ってくれました。小さいときから調理が好きだったので、この高校に決めました。
卒業後は、医療施設の食事を作る会社に入ります。いつか女川にある地域医療センターで働けたらいいなと思っています。
■向学館に一言。
女川第一小学校に入学した時から12年通った校舎でもあるし、愛着があります。できればこの場所でずっと続けてほしいです。
今までありがとうございました!また遊びに来ます。
インタビューが終わって、帰り際に「あ、そうそう、俺の愛称は中学1年のとき、敏郎先生がつけてくれたんですよ。気に入ってます(笑)」と言われた。そう言えば、そうだったかも…。なつっこくて、よく声をかけていたものだ。あの少年が就職を報告にくるなんて、感慨深い。
震災からもうすぐ8年。一丸となって復興に向かう町は、彼の女川愛をいっそう強くしたようだ。そして、この校舎は女川一小として、向学館として、彼の成長の場であり続けたのだ。
向学館は今日も、未来を創りに来る子供たちでにぎやかだ。
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冬は春の旅立ちに向けて、今までの自分について考える季節だなと向学館の子どもたちと話していて感じます。敏郎先生と話す中で、この町で過ごした日々を振り返った彼は、春からどんな生活を送るのでしょうか・・。社会人になってまた嬉しい報告をしてくれる日を夢見て冬もがんばっぺし!
みなさま来年も宜しくお願いいたします。