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「私はやっぱり中高生と語り合いたい」~「3.11の大川小」から6年8ヶ月、佐藤敏郎先生の想い

2017.11.28

こんにちは。カタリバ職員の林曜平です。

NPOカタリバでは、「教育旅行」という取り組みを行っています。これは被災地以外に住む中高生を対象とした研修旅行プログラムで、被災地を訪れることで「震災を通して、日常に繋がる学びを生み出す」ことを目的としています。

その教育旅行で宮城県石巻市の大川小学校を案内してくださるのが、元・女川第一中学校教諭の佐藤敏郎先生です。大川小学校では多くの児童が津波の犠牲となりました。敏郎先生は、大川小学校で当時小学6年生だった娘さんを亡くしています。

敏郎先生が、どんな想いで大川小学校を案内してくださるのか、どんな想いで今も子どもたちと関わり続けているのか。敏郎先生の言葉をお届けします。

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■覚えていてほしい、忘れてほしい

石巻市の大川小学校旧校舎、震災から6年8カ月過ぎた今も、連日多くの人が訪れる。

「ずい分寂しい場所に学校があるんですね」現地で、そう聞かれたことがある。

石ころだらけの空き地に、ポツンと壊れた校舎、初めて来た人は「なんで何もないところに学校が」と思うだろう。でも、ここは、かつて家が立ち並んでいた場所なのだ。

子どもたちが走り回っていた校庭、一輪車で遊んで、お花見をしながら給食を食べた中庭、扇型の広い教室、学芸会では体育館は満員で…。

みんな大好きな大川小学校。私の娘も笑顔で通った。

倒れてスロープみたいになっているのはガラス張りの渡り廊下、体育倉庫にはハードルや運動会の用具が今もしまってあるのが見える。絵が描いてあるのは野外ステージのフェンス、その脇にあった屋根付きの相撲の土俵や掲揚塔は跡形もない。

3月11日は今では特別な日になったけれど、あの日は卒業式一週間前の普通の日だった。
津波は、特別ではない日に、特別ではない場所にやってきた。

多くの子どもが地域から突然いなくなった悲しみと衝撃は、どんな言葉でもうまく言い表せない。しかも、学校管理下で起きたかつてない規模の事故でもある。

メディアの皆さんも、限られた字数、時間枠で、前例のないこの状況をどう伝えたらいいか苦悩してきた。時としてセンセーショナルな部分が独り歩きして、意図が伝わらないことや、存在しないはずの「溝」が生まれることもあった。

報道は小さな窓だ。その向こうに広がる景色を想像できるよう、伝える方も、受け取る方も努力しなければといつも思う。

私は、取材や案内の依頼は断らずに、できるだけ対応することにしている。多くの人が知るべきだし、覚えていてほしい。

反面、その記事や番組を誰にも見てほしくない、忘れてほしい気持ちもどこかにある。めでたいことでテレビに出ているわけではないし。(震災前「青春学園ドラマに憧れて教師になった人」としてテレビに出たことがある。それはそれで恥ずかしかった。)

でも、なかったことにはしたくない。あの出来事に、あの命たちに意味づけをしたい。「悲しい」「かわいそう」「悲惨」だけではなく、願わくは、ほんの少しでも未来につながる意味づけを。

遺族であり、教師でもあった私の胸の中には両方の感情があり、混ざり合って、自分でも立ち位置が分からなくなる。

親として救ってほしかった命。それは同時に先生方が救いたかった命でもあるはずだ。大川小だけ、なぜ救えなかったのか。緩やかな山を目の前に、警報が鳴り響く中、なぜ動けなかったのか。6年数か月、いつも自問してきた。

黒い波を見たとき、彼らはどんなに無念だったろう、「〇〇すればよかった」「〇〇がだめだった」と後悔したはずだ。絶対無駄にしたくない。「遺族がいつまで騒いでいるのか」と言われてもいい。私は、彼らの後悔に一生向き合う。

■3.11を学びに変える旅

2015年、NPOカタリバは、中高生が東北の被災地に行く教育旅行を始めた。その名も「3.11を学びに変える旅」。着いてすぐ始まるプログラムは大川小学校の見学とディスカッションである。日程をどう構成するか議論を重ねた末、こうなった。ここから旅を始めるべきだと。

事情が複雑なだけに、高校生が話し合うのは難しいかもしれないという不安があった。誰かを責めるだけになるのではないか、誰も意見を言わないのではないか…。

それは杞憂だった。生徒はどんどん意見を出し合い、いつもあっという間に時間が過ぎる。様々な角度から意見、質問が出て、毎回同じではない。私もいつも新しい発見をする。

プログラムにはいくつか特徴がある。まず、資料や記事を示し、十分な事前学習を行う。旅行前に、インターネットで直接私とやりとりすることもある。

当初は、資料を与えすぎて先入観をもってしまうのはどうかと思ったが、逆だった。あの場所は、どんな先入観も覆すインパクトがある。むしろ、自分なりに視点を持ってから現地に立つ方が考えは深まるようだ。

それから、生徒のそばにはカタリバのスタッフを配置する。私の解説のサポートをしてくれるのはもちろんだが、不安そうな生徒にはそっと寄り添うことにしている。何より、スタッフも私も生徒と一緒に考える。最近は、引率の先生方も議論に混ざることもある。

多角的な議論になるように、ファシリテーターが投げかける発問も極力精選してきた。

あの日の子ども、教師、家族、それぞれの立場を考え、自分の言葉にしていく。友達の意見を聞き、練り合わせて、深める。大川小のことを話しているようで、いつの間にか自分の日常を見つめ直している。

熱心に話し合う彼らの間に、あの子たちもいるような気がする。

■私のキャリア発達

誰にだって、多かれ少なかれ、目を背けたい、認めたくないことがある。でも、それはなくならない。だから、問われるのは、それらにどう対峙するかだ。「自分らしく」向き合えたらいい。中教審の謳う「キャリア発達」だ。

「3.11の大川小」にどう向き合うか。私は、やっぱり中高生と語り合いたいと思った。

中学教師だったからか、娘と同世代だからか、よく分からないが、それがもっとも自分らしいスタイルなんだと気づいた。カタリバは私にキャリア発達の場を提供してくれた。

あの日までここはどんな場所で、あの日はどうなったのか。壊れた校舎の前に立ち、想いを巡らせる。

「大川中に入ったら部活はね、英語はね…、」

娘は中学生になるのが楽しみで、あの頃我が家ではいつもその話題だった。あの日はちょうど注文していた制服が出来上がる日で、夕方受け取りに行くはずだった。

セーラー服に袖を通して喜ぶ姿を見たかったなぁ。

私たちが生きている今は、誰かが生きていたかった「今」なのだ。

当たり前に過ごしている毎日の一瞬一瞬がいかにかけがえのないものか気づいたとき、何かをせずにはいられなくなる。教育旅行から学校に帰った生徒がすぐに自主的に活動を始めたと報告があった。

3.11は終わった過去ではない。「学び」となって未来を作る過去だ。

■大川小学校での授業

先日、大川小学校で90分授業をしてきた。

「様々な職業」というテーマの総合的な学習の時間のゲストティーチャーとして呼んでいただいた。これまでに私以外にも何人か授業をしたとのこと。

私が生まれ育った大川、教師を目指したこと。今の仕事に至る経緯。もちろん、3.11のことも話したし、大川小への想いも話した。ゲームもやったし、歌も歌った。

中学2年の時に「教師になりたい」と作文に書いた。青春ドラマに出てくるような担任の先生にあこがれた。それと、故郷の先生になることが一つの目標だった。大川の先生になって、大川で青春ドラマをやりたかった。

震災後、あっという間に大川中が閉校になり、私も学校を飛び出した。だから、夢への道は閉ざされていた。というか、忘れていた。

今回、大川小の先生から声をかけていただいたとき、「大川の先生になる」という夢を思い出した。あの90分間、私は「大川の先生」だった。

あちこちさまよってきたようで、実はこんなところに道は続いていたのか。先生方、子どもたちに感謝です。

震災後、仮設校舎で授業を続けてきた大川小学校は、3月でその歴史を閉じる。

子どもたちの胸を張る姿、まっすぐなまなざし。どこよりも「ふるさと」と「命」を学んできた学校だ。私も、大川に生まれ育ったことを誇りに思う。

ここから続く道もきっとあるのだろう。

佐藤敏郎

【ご案内】
「3.11を学びに変える旅」は現在導入して頂ける中学校、高等学校を募集しております。
[プログラム内容] http://www.katariba.net/class/trip/
[導入事例] http://www.katariba.net/teacher/intro/shounan/
[資料請求] https://goo.gl/forms/zcdYYWzKJNqUcYx53
※詳細は、担当:林(TEL:03-5327-5667 MAIL:y.hayashi@katariba.net)までお問い合わせください。